昭和56年9月10日月次祭

                         入力者・井出一憲

 三代金光様がまだお若い時ある先生がお宅の方へお邪魔をした、金光様とお話しを申し上げておった時に、孫さん達がゾロゾロと入って見えてその部屋でこう暴れなさる、そしてそこの襖をパアーと破られてそれであの「金光様お賑やかでございますなー」と言うて、申し上げたら、「はい、よう働いてくれます」と仰ったそうです。お客さんが見えとるとに出て行きなさい襖破ったち言う風には仰って無い訳ですね。「はいよう働いてくれます」考えるとやっぱそうですね。子供が具合が悪くて休んだり、ね、どうか困った事があれば暴れも出来ません子供は暴れておると言う事は、もう働いておる事だとこう頂きているのでございましょうね。はいよう働いてくれます。と言うお話しを聞いた事がございますが、あたくし共お道の信心を頂いて特に、何々は合楽理念を持ってとこう言われるのでございますから、日常生活の中にもうひとつ不平不足を思わんで済む言わんで済むと言ったようなおかげをどうでも頂きたいと思います。

来月の三日ですかあの婦人大会がございます。委員長に日田の綾部さんがまあ決定されたそうです。先日から何回も幹部の方達がそのいろんな打ち合わせがあっております。為に講師を今度は若先生にお願いしたい、と言うので今日ここでその大会のテーマをね、頂きたいと言うて見えられましたから、若先生に講師をお願いしてあるのだから若先生に頂いたらどうでしょうか、と、ならそういたしましょうと言うて下がられた、すぐその後にあたくしが頂きます事が、傘を頂きます、ははあー傘と言や安心とも言われるが、兎に角特に家庭の中で婦人の方がね、不平のない不足のないいやもうガタガタ言わんで済むあの夫人、言うなら不平不足を言わんで済む信心と言ったような事が、まあテーマになるのじゃないかと言う風に今日はまあ思った訳でございますが、ね、皆さんどうでしょうか、おかげが頂きたいしかも大きなおかげが頂きたい、ならやはり受け物を作らなきゃならない又大きな心にもならせて頂かなきゃならない、そのおかげの受け物の第一はです、やはり不平を不足を言わんで済む思わんで済む、

そしてその心がしだいに育って行く大きくなって行くと言う事が、おかげを頂くと言う事とまあ大きなおかげを頂きたいと思うならば、大きな受け物が出けて行くと言う事なのですから、ね、そう言う精進をせにゃいけません。合楽にこりゃ婦人だけの事じゃありませんけれども、不平不足を言わんで済む、もうチョットもう困ったもんです、もう悪うして悪うしてどんこんでけまっしぇんて言う風に言わんですむ、ね、はいよう働いてくれますと、ような事がねあのこう何て言うでしょうか、まあ仏教的に言うならば諦めとでも申しましょうか、もう言うても思ても仕方がない、だからもう言わんもう思わんではこれはおかげが伴いませんですね。けれどもそう言う内容が出けて来ると言う事は、何故不平不足を言うてはいけないか、いやむしろお礼を申し上げねばならない事だと、言う本当な事が分かって参りますから、はいよう働いてくれますと言う神様へのまあ言うならば、お礼の言葉のようにはなってくるのじゃないでしょうか。

ね、不平不足を言わんで済む思わんで済む、ね、今日4時のご祈念を終わらせて頂いて下がらせて頂きましたらある方のお届けがございました。それでその事をお届けさせて頂いとりましたら、ウ冠に子と言う字が書いてある、ね、ウ冠に子これは字文字の字またあざなんなんて言うあざて言う字になるですかね。ウ冠に子と書くそして神様にお届けさして頂きましたら、お道の信心の根本的な教導は、ね、親と子の関係天地金乃神様と申し上げるのはあたくし共の親であり親神様であると言う事を、言うならあたくし共が天地の子であるとい言う事を分からせると言う事が根本と言う事を頂いたんです。ね、ですからあたくし共が色々実験さして貰い体験さして貰う、はあーなる程親様じゃなーと言う事が分かって来る、ね、同時に道理の上から言うても親だ子だと言う関係が段々濃いいものになって、なる程親様じゃなー親神様じゃなーと言う事が、分かって来るそこにです、うならあたくし共の上に起きて来る日常茶飯事の中にです、所謂成り行きを何故尊ばねばならないか、何故成り行きを大切にしなければならないかと言う事が分かる訳です。

何故不平を言うてはいけんのか、不足を言うてはいけんのか、親が子供が憎たらしいこの子はチョット苛めてやろうと言うような親は絶対にありませんよね。この子の事を思うから怒りもすりゃ、言うならば場合には押し入れの中に入れて、もういっちょがしませんと言うまでは、と言うような折檻もしますけれども、それとても神愛の現れなんです。所謂親心な訳です。ですから親心が分かる時にです、ね、成る程成り行きは尊ばねばならんのだ、大切にしなければならんのだと言う事が分かるです。分かるからそこんとこ大切にして、拝んで行くと言うような生き方、ね、あたくし共はね天地の子であると言うこの自覚が、本当にこう実感として段々頂けて来る信心、その信心が根本となって一切の教えと言う事になるのです。又おかげの所謂それが根底なのです。ね、ウ冠の子である宇宙の子である天地の子である、ね、あたくし共の心の中に安らぎがある、ね、喜びがあるそこには普通の人ならば不平言う所であろう、不足も言いたい所であろうけれども、それを不平を言う段じゃない不足を言う段ではない、お礼を申し上げる心が備わってくる。

腹立ちを総て許して茄子の花。ね、それこそ親の意見と、ね、茄子の花は千に一つの仇もないと言われます。ね、親の意見と茄子の花は千に一つの仇もない、ね、そこん所が分かる憎うて叩く手ではない、可愛いからこそである、分からせたいからの事である。助けたいからの事である。ね、そこがあたくしは言わばあたくし共が頂いておる神様は、あたくし共の親神様であると言う事が、本当に分かる天地の子であると言う事が分かる。そして天地の働きの中に私に下さる物、それは決して毒なもの食べよと言う親はありません。ね、そりゃ苦いもの食べさすかも試練けれども、それとてもやはり親の愛である、ね、親の心が分かってそして信心がさせて頂けるようになると、もう不平不足などはもったいのうして言えなくなって来る。神様がこんなにまでして親様がこんなにまでして、おかげを下さると言う事になって来る、ね、親神様のお心に親の心に触れた時に感動が湧いて来る。喜びが湧いて来る、しかもそれはどんな中にあってもそれが喜び、そう言うおかげがあたくしはそう言う心で願う祈ると言う事でなからなければ、只どうぞお願いしますお願いします、そしてもう不平不足を一杯所謂受け物創るどころではない、神様が顔をしかめなさるような事にまでなりかねないのです。

昨日あたくしは昨日おとといでしたね、久留米の三代の教会長先生が亡くなられましたから、こっからもう告別式に参りました時に、あるあたくしの心にまあ人間心でこうこうしなきゃいけないだろうと、思うたら神様こうこうでよいと頂いた、それでどうもあたしの心がなんか許さん感じがしますから、三回おんなし事をお伺いした、そしたら神様がご心眼ににがごうりをみせて下さった。神様がにがい思いをなさったんだな、はあ分かりましたって言うてもう三回目に要約分かりましたて言うた事ですけど、ね、神様にそう言う苦い思いとかいやな思いとか悲しい思いをまでさせておるような事はお互いないだろうかとこう言う、ねあたくし共が人情を抜きにして、神情にならせて貰わんと所謂神の心が分からない、所謂親の心にならせて貰わなければ親孝行は出来ません。ね、先日ある方が朝参りを最近しておられる方ですけれども、子供達が話し合ってご両親を旅行に連れて行くとこう言う、

所が主人もいっちょん行きたくなか、あたくしも行こ事なか、そうばってん折角計画までしとるならやっぱり子供の言う事も聞かにゃ出けんからねて、まあ子供の心になって、と言うておりましたがですね、子供は親が喜ぶだろうと思うて兄弟二人か三人おられるとが、話し合って旅行させようとか、所が親たっちゃいっちょんいこ事なかち言いよる、ね、へっへっへこれで親孝行になるでしょうか、思うてくれる事は有り難いけれども、ね、親が願っておる事は棚にあげて只自分達で親を喜ばせると言う事は、旅行させればもうそれで喜ぶかのような思い違いをしておる、一生懸命参りさえすればええ拝みさえすれば神様は喜んでは下さらん、神様の心が分かって神様の心に応え祭れると言う事なんです。背中がするような痒いと言うて前ん方どんかいてやるなら、ね、そこじゃなかって却って歯痒い思いをするような事がある訳です。ね、言うならばここで頂く合楽理念はその親心神の心をあらゆる角度から説くのです。だからその心に添い奉りたいと言う、十年立っても二十年立っても、

先だってもある方が朝参りして参りました時に、御願いをするとおかげは頂きますからね、もう何十年続いていますけども、本当に今そしてある難儀にぶつかっておられる。だからあんた達の信心がもう遠廻りばっかりしてから、本当なところに中々到達しない、言うならばおかげ頂くおかげ頂くと言うとこだけのお参りであり信心であって、教えを頂いて教えを行じようと言うような心がないから、これはもう大変ないや遠廻りち本当な所に到達せんなりにしまえるかも知れないよ、もうここ辺いい加減に所謂親の心が分かって親の心に添う信心をさせて頂なと、申しましたが全くその通りです。ね、親の言う事にはそれこそ千にひとつのあだもないのであるからと、言う事が分かった時にそれが痛い事であろうが、まあ問題として腹の立つような問題であっても、ね、神様の働きに間違いがない事が分かってそれを有難く頂ける、有難く頂くと言う事は不平不足を言わんで済む心の状態、そう言う心の状態におかげが頂ける。

しかもその心が段々育って行く、今日福岡の伊藤さんが参拝して見えましてから、調度あちらに神様を奉祭されましてから丸一年になります。一年にならせて頂くが果たして自分の信心がどの位育ったであろうかと思われた。そしたら最近、ね、洋服の生地やら反物やらそれから先日はあの布団の見事なあの布団の側ですかね、やらを頂いたその事を頂いた、ね、衣食住の徳と言われるがはあーこりゃ信心も出けんのに、自分に身の徳がついて行きよるとじゃろか、勿論自分の物はそれこそ化粧品ひとつ買わないと言うそう言う修行をなさっています。御造営が合楽建設の為にと言うまあ精進をなさっておられる。所が最近はそう言うようにしてから思いもかけない所からこう集まって来る、そしてあちらでくの一会が誕生して今言う不平不足だんではない、それを一切を一切を喜びで受ける稽古を一生懸命させて頂いておる。ね、一年間を振り返って見てははあこう言う事が信心のお育てを頂いて来た事で、あろうかと思うてお礼を申して下さいと言う事であった。

不平不足だんじゃないそれを喜びで受ける稽古を一年間して来た。そしたら一年目には言うなら衣の徳が身について来たとこう言うのです。ね、今日は行橋の方から皆さんでお参りさして貰うた、皆なお参りした。昨日があちらの大体共励会が調度ここの講演会のあった日でしたから、昨日になった訳,昨日こっから先生方が参りましてえー共励会を、ね、言わばこの堀内さんの信心のこれなんて言うでしょうかね、まああれが取次ぎ者精神と言うのであるか普通のもんと違う。そんてもの修行ならいとわんと言うのじゃから、人が助かる事の為なら、ね、願われる事はあたくしに関わりのある一切至上の助かりと言う事です。わたくしに関わり合いが出けて??なる、その関わり合いの者が皆な助かって参りますように、一切至上が助かって参りますように、その為の修行ならわたくしの事などもう全然ない、ね、所が人がどんどん助かって行く、昨日の朝もえー今朝からお夢を頂いた、大きな丼に蛤のお吸い物が一杯蛤がいっぱい入っておる所を頂いておる。

そしたらその電話がかかって来たすぐその後に、高松和子先生があのこれは新田原の方から参って来るあの先だってあのうんお参りが出来ない、お参りが出来ないから毎日テープを聞かせて貰う、もうテープが刷り切れるように聞かせて頂いて、お商売に出る前に必ずそれを一遍頂いて行く、頂いて行く日行かん日は商売の売れ方が違うと言う程しにもうそこに系統しておられるね。御理解を頂いて一言だけでも本気でまあ実行しようと言うような、中々熱心な方でその方がもうお前がそんなに合楽合楽ち言うなら、今度はその車を合楽参りの車を買うてやろうと、主人が言うてくれたと言うお届けが先日ありましたが、その方が高松先生にお届けあの受けて聞かせて頂いた所が、えー先日も商いに参りました所が立派なそのお神様が床の間にお祭りしてある、はあーここはあの金光様のご信心をなさるのですかと、言うて聞いたら元ここの町に金光様があったけど今はなくなったと、それでまあその時分熱心に参る所がなくなって、えーもうこの辺はあすこもあすこもあすこも一生懸命参りよんなさったけど、

教会が無くなったからと言うお話しであった、もうそん時にその田中さんが喜んで喜びの模様を高松先生に言うて来ておる。それでそのあすこも信者さんだったここも信者さんだったと言う所へずーっと、そのまあお話しに行ってあしたはこんな風で、合楽の先生方が見えて行橋で行橋地区の共励会があるからと言うて、皆な所謂合楽元現活動にしたとこう言うのです。ね、蛤のお知らせはあれは貝ですから、しかももう味のよい貝会員ですね、言うならばここで言うならご信者、よい信者が次々と出けるとこう言う事なんです。ね、貝にも色々ありますお知らせを頂いてね、こんな小さい蜆貝のまあ蜆貝ぐらいの会の人でも沢山集まると味が出るです、ね、蛤なんかのお知らせを頂く人をね、あのやっぱりいい味合いの信心をなさいます。ね、真珠なんかの貝はね、身を食べるとじゃないおかげを頂くとじゃない、中に育って行く真珠の玉をねもう楽しみに信心して行くと言った人達の信心はいいですね。

中にはほら貝があります。あのぶーふんげち言う?とです。えっ、やっぱ太かこつそうにゃ太かこつ言いなさるばってんが、信心が出けんちごたる人があるです。だからねお参りして来る皆さんあたくしがお知らせを頂いたそのじゆうななん??どげな会じゃろかっちいっちょ思うて見てごらんなさい。せめてハマグリのようなそれこそ味のある信心を、その味のある信心と言う事がです、ね、只おかげおかげと言う神様に苦い思いをさせるような信心では、おかげはよし頂いても、ね、信心が育たなかったらです神様は喜こんで下さらんです。ね、不平不足を思わんで済む言わんで済むと言うようなおかげを頂くと言う事と同時に、そう言う心で隣の事が祈れ村中の事が祈れ、ね、それが天が国家の事までも真剣に祈れれるような、言わば自分の信心がそう言う育って行くと言う事、まあ堀内さんじゃないけれども人が助かる事の為ならばとこう言うどんな修行でもいといません。ね、自分に係わり合いのある人達が皆なが助かって行くと言うような、祈りが出来れるいつも何十年たってもほんな自分のこつだけしか願えないと言う人がありますよね。

自分が育とうとか育てて頂きたいて言う願いを持たないんです。ね、だからもうこんなに親を悲しい思いをさせる事はなかろうと思うですね。始めの間はこいらしかこいらしかち、いいよるばってんよちよち歩きでね、それがよちよち歩きでいっちょん太りもせんなら、それこそ親の嘆きはどう言う事でしょうか。ね、それが段々成長して親の言う事を聞き親の手伝いも出ける、親の手にも足にもならせて頂こうかと言うようにあたくしは育って行かなければね、所謂本当のおかげが育っていかんです。先だって青年大会に見えた結城先生からあくる日若先生あてに電話がかかって来た。もうこの度はもう大変なおかげを頂きました、もう合楽でのお話しを今母と家内と三人にお話しをして、こちらで頂いて参りましたあたくしが玉露を一缶差し上げとったお土産にそれをただ今頂いとります、もう大変におかげを頂いた事をもうあのお礼をもうされて、えー先だってあちらへ朝のご祈念の時に頂いた御理解の中に茄子のお話しが出た、ニンニクのお話しが出た茄子の花は今申します、千にひとつのあだもないと言う所謂茄子のお知らせと言うには、イガを越えて成るのであって難儀なら難儀を越えてそこに成ったその実こそが安心であり、

安らぎであり本当のおかげだと言ったような事。ニンニクと言うのは大にんと書いて所謂あの大きく示すと言う字が二つ書いてある、言うならば、ね、天地にね和賀心時代を世界に頂こうとこう言う創ろうと言うような精神、合楽の信心はそれはニンニクのような信心である、だから始めは鼻つまみされるけれどもひとたび合楽のにんにくを食べたら、もう合楽に見えた先生方やらご信者さん方が一遍まあ評判が悪いから一遍行ってみろうで来た人でもです、ね、もう言うならば合楽の虜になってしまわれるように、にんにくの味を覚えて帰られるからです。ね、その話しが耳に残っておりましたからその沢山修行生の方達にも修行してもらわなと思うて、ニンニクの何かに漬けた物をねあの一樽送ったとそれから茄子をね、茄子の有名な味噌漬けがありますそれを又一緒にお送りしましたからと言うお礼の電話であったそうでございますがね、あの時皆さんが頂かれたと言う事は、ね、もう先生の話を聞いておると信心がもう見事に育って行っておる、人間の我情我欲を絡ませながら中学校小学校中学高校大学と信心が段々進めておいでられる。

信心したから一遍に我情我欲が取れると言う事はない、いつの場合であっても我情はある、いつの場合であっても我欲はある。ね、けれども信心はこう段階をおうて育って行っておられる。そして大きな祈り願いが出けるようになり、ね、あれだけの言うならば病院の先生ですから、ね、お忙しい中にやっぱああしてお話しに見えられる。人が聞いて下さると言うならば今度でも、青年会の方がお礼を差し上げたらそれは青年会の基金にして下さい、一冊五百円で皆さんが求められたでしょうご本あれの売上を全部基金にち言うてから寄付して帰られたそうです。ね、もうお役に立ちたいと言う事の念がねそりゃもう自分は収入の病院を二つかね持っておられるんです。産婦人科の先生と何か美容整形外科ですか、そう言う内容の病院ですけれども、ね、もう本当におかげを頂いてまあ病院が建ったはなまあ言うなら売上げも少なかった、その売上の一割だけは神様へお供えをさして貰おうと決めたけれどもそれが段々多くなって、もう二千万になり三千万になると言う風に大きくなったら、ちったおしなったすこーしばかりの時はいっちょんおしなかったけども、多くなったら段々あの辺が何とも言えんとこですね。

おしなったけれどもやっぱそれを神様にお使いやって来た、そして最後に言うておられる事は、それこそ一万円だってあの段ボールの箱一杯に詰めて、御本部の金光様のとこへドンと持って行ったら金光様がビックリしなさるようなお供えがしたいと言う願いに燃えとられます。ね、我情我欲がやっぱりあたくし共も恐らく一生続くでしょう、生神金光大神を目指しておっても今朝から頂くように、ね、その我情我欲が信心を育てたとこう言う今日の朝の御理解でしたよ。だからあるからどうじゃないけれどもそれが段々高度化している。中学校ん時にゃ高校大学と言う風に育って行って、ね、そう言うやはり矛盾した心も生まれて来るけれども、ね、やっぱり、ね、神様への言うならば一番始めは神様に喜んで頂くと言う信心ですもんね、そこから発足しておられる。そしてそれは出来る出けんは別としてそう言ような夢を持っておられる。しかもその夢に向かってやっぱ近づいておられる。ね、そう言う信心もですやはり信心による言うならば受け物、言うなら今日は皆さんに聞いて頂いたのは不平不足は言わんで済む信心生活、ね、

ならもう仕方がないからと言うて諦めて言わんのじゃない、おかげの伴なう言うなら不平不足を言わんで済む心、いやむしろお礼を申し上げなければおられない、それこそ宇宙の子であると言う自覚が出けて参りましたら、ね、親と言う事が分かれば、ね、親の言う事に千に一つのあだも無駄もないんだと言う事が分かって来る時、よし叩かれてもすいませんとか有難いとかと言う事になって来る、ね、そう言う活き活きとした心で不平を言わんで済む、ね、不足を思わんで済む信心の心の状態が生まれて来る、そう言う心の状態で隣の事から村中の事が祈って行けれる、大きくなって行けれるようなあたくしは大きい祈りを持たして頂いて、今度は言うなら大きなおかげが受け物が出来ると言う事、そう言う風にして例えばその縋って行くと言う事を見て、親神様が喜んで下さらない筈がないと言う事、ね、いつまーでん一寸帽子ごとしとってはね、それこそ神様に苦い思いする悲しい思いをさせる事になります。

人前だけではねそこん所があの解き明かされるのですから、成り行きを尊ぶとか大切にするもう大切にせずにはおれない心をいよいよ育てて行きたい、そう言うまあ第一不平不足を言わんで済む思わんで済む、そしてその思いその心を育てて行く、そしてそれが人の助かる事の為ならこのくらいの修行はと言うくらいな信心にの段階をおうてお育てを頂く願いをね、立てさせて頂かなければならんと思います。ね、合楽の信心は馬鹿じゃなかろうか、どげん言うたちゃ腹もたてきらんと言われるくらいな一つおかげを頂きたい。ね、金光様のお言葉じゃないですけれども、ね、お孫さん達が暴れておられるのに、それを見てにぎやかな事ですね、ちょいとおたくの孫さんは悪かのち、普通のとこなら言うとこやろ、ね、ね、所が金光様そげなこつ言う訳いかんめえち、おにぎやかですなち言うたら、はいよう働いてくれます。ここでテープ終わり。